デカールの歴史 国内編

日本国内の転写印刷

陶器への転写は14世紀頃からイタリアで発祥したエッチングによる銅板転写に始まり、転写紙による転写はイギリス、リヴァプールのジョン・サドラーによって1752年に実用化されたとされています。
日本国内においては明治21年(1888年)頃、美濃(現在の岐阜県)の製陶業で型紙絵付けと共に銅版彫刻による転写が盛んに行われていましたが、この頃すでに海外製、主としてドイツ製の転写紙が少量ながら輸入されていました。
元々転写印刷は製陶関連業者の手によって絵付け作業の機械化として研究され、製陶工場の一部に従属的に配備されているに過ぎませんでしたが、第一次世界大戦を契機として輸出陶磁器の需要が大幅に増加する中、転写紙の需要を喚起し、やがて一つの独立した産業へと規模を拡大していくこととなります。
ここでは日本における転写印刷の開発から発展の歴史を振り返ります。

開発初期

国内で初めて転写印刷の研究が始まったのは1896年、岐阜県多治見町の小栗國次郎らによるものと言われています。

1866年多治見町に生まれ、16歳から陶器の絵付業に携わっていた絵付け師でもあった彼は28歳で独立開業、従兄弟の小森玲二と主に印刷用の銅版を研究の末完成させました。

30歳の頃、名古屋の神戸商会の主人から陶磁器用のドイツ製の転写紙を入手します。一片9cm程度の婦人画が描かれたものでしたが、國次郎は1枚あたり七銭(当時の価格で1000円以上)という価格に驚き転写印刷の研究に着手することになります。紙、インク、糊の微妙な配合、試行錯誤を繰り返し、約6年間の歳月をかけて同業の加藤味三郎と共に1902年に最初の転写紙を完成させました。

開発の成功

國次郎は絵付け業を営みながら転写紙の研究開発を続けました。当時日清戦争に勝利し、アジア列強の位置を確実なものとしていた日本でしたが、海外貿易、陶磁器の輸出に関してのマーケットは狭く、完成した転写紙も売り上げは芳しくありませんでした。陶磁器製造業の従属的存在であった転写紙製造業が一つの産業として独立した立場を確保するには未だ市場規模が小さ過ぎたのです。

そんな中國次郎が最初に世に送り出した製品は満洲行きの髭洗い、内地向けの杯、銚子などで、当時名妓として大変有名だったぽんた(鹿嶋 ゑつ)の似顔絵を協力者の絵付け師、森鐵吉が描いたものを転写した商品でした。明治36(1903)年、森村組(日本陶器合名会社の前身)の注文で、インド人兵隊の絵を印刷、これは大きなビジネスチャンスとなるはずでしたが失敗に終わってしまいます。

しかし國次郎は諦めることなく多治見から名古屋へ移り再印刷に挑戦します。見事成功した國次郎の手腕が認められ、森村組の第6工場を印刷工場として提供されることとなりました。

商業化の始まり

森村組の転写印刷部門を任される形となった國次郎でしたが、本業である絵付け業も並行して営んでおり、その関係性の薄さを問題視されたのか、森村組には早期に解任されることとなってしまいました。

その頃京都に本社を構える名古屋白壁町の松風陶器合資会社の提言もあり、製陶業発展のため転写印刷技術の国産化を進めるべく明治39(1906)年、同社の工場内に小栗印刷工場を設置します。國次郎らは松風工場に出入りするユダヤ系ドイツ人、ワイズから欧州で流行の図柄を取り入れるなどして西洋風陶磁器の商品化を進めていきました。

一方森村組では小栗の後任として深田藤三郎を迎えました。1879年生まれの深田は瀬戸窯業学校に就職し、その後名古屋の森村組に入社した人物です。小栗のもとで働いていた岩井俊次と協力し約2年の研究の末に明治41(1908)年深田式陶磁器印刷焼付法として特許の取得に成功します。

その後日本陶器合名会社専属の工場として操業していた深田印刷所は100名を超える大所帯となり、製版部や多くの部署を備える一大印刷所となりました。転写印刷に関する季刊誌などの発行、研究会なども行い、その傘下には多くの人材が集まり、転写印刷の発展に大きく寄与することとなりましたが深田は大正2(1913)年、42歳の若さで早世してしまいます。当時海外向けに販売されていた2社のディナーセットの売り上げは好調で、松風のブライダルローズ、森村のシュウシュウ薔薇として名前を知られるようになりました。

絵付け業の機械化として研究に着手した小栗國次郎、それを理論化し体系化させ、印刷術として昇華させた深田藤三郎、この2名によって転写印刷の商業化が始まったのです。

産業としての独立

大正3(1914)年第一次大戦が勃発。日本はドイツに宣戦布告し、ドイツ製品の輸入は完全に停止してしまいます。

急激に増加する日本製陶器の輸出に伴い、これまで海外からの輸入品に頼っていた転写印刷の需要は急増、転写印刷技術への関心も非常に高まりを見せました。小栗印刷工場(松風陶器合資会社印刷部)を操業していた國次郎は増加の一途を辿る転写印刷の注文から、森鐵吉を残し大正4(1915)年、新たに杉村工場を設置します。松風に残った森も大正7(1918)年に独立、名古屋転写印刷所を立ち上げ、大正8(1919)年には大阪の東洋琺瑯株式会社内部に分社工場を設置。翌9(1920)年には杉村工場と合併し、中京転写紙印刷所を立ち上げることとなりました。

一方深田印刷所は深田の死後、岩井により大正13(1924)年まで経営され、閉鎖されました。

初期の転写印刷を支えたこれらの工場が製陶工場の子会社から分離、独立したものであったのに対し、この頃から名古屋を中心に転写紙の印刷を目的として開業する工場の設立が相次ぎました。そんな中、大正5(1916)年に開業した旭石版印刷(田中転写印刷所)は名古屋製陶所に勤務していた田中恒一が破多野徳三郎と共に経営を始めました。経営面では大正13(1924)年には中国への窯業視察を経て増産を企画し、また使用原料の国産転換を図るなど海外展開を見据えた経営に手腕を発揮しました。技術面においては昭和3(1928)年に写真を原版として使用することに成功、昭和8(1933)年から生産能率向上の為全工程を機械化する研究に着手し、昭和14(1939)年に成功させるなど、転写技術の近代化に尽力しました。

ヨーロッパにおける転写印刷の始まりの地が製陶業が盛んなイタリアやイギリスの都市部であったのと同じように、国内においても美濃を始まりとして同じく製陶業が盛んだった名古屋で転写印刷は発展していったのです。

参考文献

・印刷時報6月号(177) 田中恒一 大阪出版社

・印刷雑誌12巻1号 岩橋章山 印刷学会出版部

・名古屋印刷史 名古屋印刷協同組合

・転写印刷五十年史 長馬圭之 窯業界出版社

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